高齢者ドライバーの事故のニュースで考えたこと

高齢者ドライバーのブレーキ踏み間違い、操作ミスのニュースを見るたびに事故車はいつも走行不能になるまで走っているな、ということが気になります。
そこからいろいろ考えた、とりとめのないことを書いておこうかと思います。

ニュースでよく見かける、ブレーキ踏み間違い事故は、人を轢いたり、何かにぶつかったりしてもその時点で減速や停止をせずに、走行不能になるまで走り続けているように思います。
操作ミスがあったものの、事故を起こすことなく、止まった場合はニュースにならないでしょうから私が目にしないことは当然ですが、そういうことではなく、人身事故などを起こしていながら走り続けている、ということが気になるのです。

先日、東京池袋で起こった事故でも、運転手は事故後、息子に人を轢いたと電話で伝えた、といった報道がありました。人を轢いた認識はあるわけです。なのに、減速・停止をしていなかったようです。

65歳以上のドライバーの約65%が運転に自信がある、と回答しているアンケート調査があります。
私は、この思い込み、と言っては言い過ぎなのかもしれませんが、この意識のために、操作ミスから事故を起こしても、減速するための行動が取れないのかな、と思います。

もし、減速のための行動を取るとなると、まず、自分がブレーキとアクセルを踏み間違えている、という事実を受け入れることから始めなければいけません。もしくは、その可能性を疑う必要があります。
しかし、それができないから、間違ったアクセルペダルを踏み続けるのかな、と。
ペダルから足を離すことは、自分が運転を誤った、ということを認めることになります。 ですが、自分が運転を誤るわけがない、ということで眼の前の歩行者よりも自分を守ることが優先されているからかな、と。
東京の事故でいえば、意識的なのか無意識的なのか、アクセルが戻らない、とすることで、自分に否はない、どうしようもなかった、という考えなのでしょうか。

高齢者ドライバーの問題を無くしたり、減らしたりするために、認知症のテストや家族による説得、免許証返納による何らかの報酬などの取り組みや訴求が行われているかと思います。ですが、まずは、高齢者ドライバー自身の認識を変えることが必要ではないかと思います。

免許証更新の際など何らかの機会を儲けて、さらには頻度も上げて、自分の運転技術はどの程度なのか?という高齢者ドライバー自身の運転技術の認識と、実際の運転技術のギャップを明らかにすることが必要だと考えます。これを受けていただくために何らかの報酬があってもよいのかも知れません。
重要なことは、単に講習を受ける、第3者に評価してもらう、ということではありません。
自分の認識と現実のギャップ、ズレを認識してもらうことです。自分ができると思っていたことができるのか、できなければどれくらいできないのか。
そのために自分の運転技術のレベルを自己申告してもらい、その後、実際に運転技術を測定し、ギャップを検証します。もちろん、測定方法をどのように納得していただくか、どういう測定方法を取るのか、といった問題がありますが、その結果、下記の関係でギャップが大きければ運転技術への問題を認識してもらえるのではと思います。

自己の運転技術イメージ得点>実際の運転技術評価点

高い運転技術を示せないことを見越して、ギャップを縮めるために自分の技術レベルを低く申告することが可能ですが、それは自分自身でも運転技術が無い、と言っているわけですから、自ら運転不適格者だと宣言するようなものです。
さらに言えば、すべての年代の人たちに対してもギャップの有無を確認できるようにするのも良いかと思います。ギャップの大きさに何らかの傾向があるのか?運転歴や年齢でいつ頃からギャップが大きくなるのか?など、追いかけると面白そうですし。
とはいえ、こういったことは根本的な解決ではないでしょう。
法律でどうにかする、という方法もあるでしょう。これは強制できるし、手っ取り早いですが、これも根本的な解決ではないように思います。
車があれば便利だとかいろいろ乗り続ける理由はあるでしょうから、そういった利便性を担保する施策もよいですけど、一方で、老化、衰えること、何かができないことへの認識の変化も必要なのではと思います。

自動車の運転にこだわることには、利便性などの理由もあるでしょうけど、免許証を手放す、それも運転ミスをするかもしれない、ということが衰えを認めることになると思います。そのことへの抵抗があるように思います。
そして、その抵抗を生むのは衰えに対するイメージにあると思います。
これは本人の認識だけでなく、そういう人を見る側のパーセプションチェンジも必要なのではと思います。
何かができない人を見る目の変化。
こう考えると多様な価値観を持つこと、認めること、そういったことが重要なのかなと思います。
ダイバーシティということにつながるのでしょうかね。